アランはいつ読み返しても、新鮮な学びをもたらしてくれます。
小学生のころに両親の勧めで読み始めましたが、この歳になってもなお新しい発見ばかりです。
「まといのば」では現在「開業スクール」を開催しており、まといのばメンバーに対して開業支援をしています。
彼らに対するエールとして、このアランの言葉は響くのではないかと思います。
(引用終了)幸福はいつもわれわれの手から逃げて行くといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分でつくる幸福というのはけっしてだまさない。それは学ぶことだから、そして人はいつも学んでいる。知ることが多くなればなるほど、学ぶこともますます多くなるのだ。そこからあのラテン語を学ぶ楽しみが生まれる。それには終わりがない、否、むしろ知識の進歩によって楽しみが増大している。音楽をやる楽しみも同じである。だからアリストテレスはあの驚くべきことばを吐いている。真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と。「楽しみは能力のしるしである」と彼はいうのだ。これはすごいことばだ。このことばは表現の完璧さのゆえに鳴り響き、学説をよそにしてわれわれの心を捉える。幾度否認してもついに無駄であった、この驚くべき天才哲学者を理解しようとするならば、この点をこそよく見なければんらない。何事をやるにしても、ほんとうの進歩をあかしするのは、人がそこでどんな楽しみを感ずることができるかである。そこからわかるのは、仕事は唯一のよろこび、それだけで満たされたよろこびであることだ。わたしが言っているのは、自分で自由にやる仕事のことで、それはつまり、能力を示すわざであると同時に、能力が出ている源でもある。くりかえすことになるが、人にやってもらうのではない、自分でやることだ。
誰でもあの石工たちが暇をみては自分の小屋を建てているのを観たことがあろう。石工たちが石を一つひとつ選んでいるところを見ているはずだ。この楽しみはどんな手仕事にもある。仕事をしている職人は何かをつくり出し、いつも学んでいるからだ。しかし、まったく機械的な作業は退屈をもたらすばかりでなく、時には大きな混乱となることがある。職人が仕事の分け前にあずかることがなく、ただいつも同じことを繰り返しているだけで、自分のやっていることから何も得ることがなく、それをもとにさらに学ぶこともできないような時には。これとは反対に、やらねばならないことが次から次へと出てきて、一つの収穫が次の収穫を約束すること、これが農夫の幸福である。わたしが言っているのは自由な農夫、自律の野人である。しかしながら、かなり骨の折れるこのような幸福に対しては、あらゆる方向から猛反対が起こる。それはいつも人からもらう幸福が欲しいという、救われることのない考えからである。なぜならディオゲネスの言うように、労苦こそよいものだから。しかし、精神はこの矛盾を担うことをよしとはしない。精神はこの矛盾を乗り越えなければならない。くりかえすことになるが、精神はこの思惟によってこの労苦を楽しみとしなければならない。 一九二四九月一五日(引用終了)(アラン「幸福論」pp.161-162岩波文庫)
「仕事は唯一のよろこび、それだけで満たされたよろこび」、なぜなら、それは「能力を示すわざであると同時に、能力が出ている源」だから。
「誰でもあの石工たちが暇をみては自分の小屋を建てているのを観たことがあろう。石工たちが石を一つひとつ選んでいるところを見ているはずだ。この楽しみはどんな手仕事にもある。仕事をしている職人は何かをつくり出し、いつも学んでいるからだ。」
仕事が学びであり、学びが自分でつくりだす幸福であり、学びは際限がなく、またそれゆえに喜びも際限がないわけです。
自由な農夫、自律の野人としてこれから未知の大海原へ漕ぎ出すわけですから、猛烈な労苦を背負いますが、それは前頭前皮質によって、労苦は楽しみとなり、幸福の源泉となります。われわれは動物ではなく人間であり、機械ではなく人間だからです。
開業、がんばりましょう!!!
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