東欧を制するものはハートランドを制し(マッキンダー)

地政学の祖マッキンダーの著書は「地政学」のイメージを覆します。

古代にまでさかのぼる歴史観、そして地球規模で観る世界地理、政治、経済、宗教というのもを高い抽象度と怜悧なリアリズムで切っていきます。

マッキンダーは古いとか、地政学は冷戦の終わりと共に終わったなどと言われますが、それはマッキンダーの理解が浅いためではないかと不遜にも思います。

地政学者は本当に天才的な方が多いのですが、その中でもマッキンダーは別格です。


ここでは、まといのば寺子屋「地政学」で紹介したマッキンダーの引用を紹介します!

(引用開始)

あるローマの将軍が戦いに戦って町に帰ったとき、まるで身も心もとろけるような歓迎の渦のなかで、彼の戦車の後ろに乗っていた奴隷が、「あなたには死の影が迫っています」と、そっと彼の耳のなかにささやいた。今われわれの政治家達が講和会議の席上で敗者と差し向かいになって話しているとき、優しい姿をした守護天使(ケルビム)が時折彼らの耳に次のようにささやくありさまを想像してみたい。

東欧を支配する者はハートランドを制し、

ハートランドを支配する者は世界島を制し、

世界島を支配する者は世界を制する。

Who rules East Europe commands the Heartland:

Who rules the Heartland commands the World-Island:

Who rules the World-Island commands the World. (「マッキンダーの地政学」p.177)

(引用終了)


1.「コロンブスの時代」とその前後!

(引用開始)

 もし現在われわれがエジプトの王朝史を取り扱っているのと同様に、ずっと後世の歴史家達が、現にわれわれの経過しつつある近代の約四〇〇年間を遠近法的な感覚で振り返ってみるとしたら、彼らはたぶんこれを名づけて“コロンブスの時代”とでもいうであろう。そしてついでに、これは紀元一九〇〇年の直後で終わったと、注釈をつけるにちがいない。(略)

 ところで、いわゆるコロンブスの時代を、これに先立つ時代と比較対照してみたばあいに、それを本質的に特徴づけるものは、果たして何だろうか? それはひとくちで言えば、ヨーロッパ的な世界の拡大に際して、ほとんど抵抗らしい大きな抵抗に出合わなかった、ということだろう。これに比較すれば、中世のキリスト教世界はずっと狭い所に押しこめられていたばかりでなく、常に外敵の劫掠に(ごうりゃく)にさらされていた。

 しかし現代以降、つまりコロンブスの時代以後の時代においては、われわれはまたふたたび一種の閉ざされた政治のシステムと交渉をもたなければならないようになった。ーーーしかも、それは世界規模の現象である。(略)

 まずはこのような理由から、われわれはやっとこの二〇世紀の初めになって、これまでとちがったさらに完全な見方で、世界の地理と歴史のあいだの相関関係をしっかりととられる時期に遭遇したような気がする。つまり、われわれは、ようやく全世界的な規模であれこれの地形を比較考察したり、またさまざまな事件のあいだの真につながりを考えたりすることができる時代になった、という意味である。これは言葉を変えていえば、すなわち世界史全体のなかにおける地理的な因果関係について、少なくともなんらかの特徴をしめす図式を発見するための努力だといってもいいだろう。そして、もしこの試みがうまくゆけば、現に国際政治のなかに競合しつつあるさまざまな勢力の成り行きについて、あるていどの見通しをもつために、この図式が現実に役に立っていることが期待される。(「マッキンダーの地政学」地理学からみた歴史の回転軸〈1904年〉pp.251-253)



2.ヨーロッパの文明と称するものは、とりもなおさずアジア民族の侵入にたいする、ごくありきたりの意味の戦いの産物にほかならなかった

(引用開始)

そもそも国家とか国民とかいうものは、けっして単なる動物としての人間の集団ではないので、国家を組織しようという考えは、おおむね共通の苦難の洗礼を受けたところから生まれてきた。つまり共同して外部の圧力に抵抗するという必要が、それぞれの国家の成立をうながしたわけである。 

 英国が七王国の体制のもとにどうやら国家としての姿をなしたのは、デンマークやノルマンディーからの闖入者のおかげだった。またフランスが国家として成立したのは、それまでたがいに戦っていたフランク族、ゴート族およびローマ人等がシャロンの戦場で一致団結してフン族と戦った経験がもとであり、さらに英国とのあいだの百年戦争が、彼らの国家意識をさかんにした。キリスト教社会の観念は、ローマ迫害のもとで生まれ、十字軍の征服行を通じて熟成された。アメリカ合衆国の観念が一般の人びとに受け入れられたのは、長い独立戦争の過程を通じてであった、それまでは、いわば植民地ごとの地理的な愛国心があったにすぎなかった。ドイツ帝国の思想は、フランスとの戦いのいて、南ドイツの王国が北ドイツと連携した後に、はじめて不承々々ながらも受け入れられた。(略)

ともかくヨーロッパの文明が花開いたのは、あくまでも外民族の野蛮な行為にたいする抵抗の歴史を通じてだった。それで、私が今夕特に諸君にお願いしたいのは、しばらくのあいだ我慢してヨーロッパならびにヨーロッパの歴史を、アジアならびにアジアの歴史に従属するものとして見ていただきたいということである。事実、ヨーロッパの文明と称するものは、とりもなおさずアジア民族の侵入にたいする、ごくありきたりの意味の戦いの産物にほかならなかったからである。(引用終了)(同pp.254-255)

アジアから攻め込む民族と言えばやはりこの人。チンギス・カンですね。

蒙古襲来です!


3.ヨーロッパ、アジア、アフリカはそもそもつながっているんだから世界島(ワールド・アイランド)と呼ぼう!

(引用開始)(世界全体をデモクラシーの安全な住家とするために戦うという:引用者注)理想は、それでいい。が、同時に新しい現実を直視することも、またこれに劣らず必要だ。最近、戦争はその終末的な段階にはいり、今やランド・パワーとシー・パワーとが四つに組んで決闘の様相をしめしている。そしてシー・パワーのほうがランド・パワーをその攻囲下においている状況だ。(略)現在すでにヨーロッパ、アジアおよびアフリカの三大陸は、理論上ひとつながりであるだけでなく、事実においてもまた一つの島になってしまっているからである。ここで改めて、われわれは今後これを世界島(ワールド・アイランド)とよぶことをたがいに確認しておこう。(略)

 このようにしてみれば、いわゆる三つの新大陸は、その面積上の比率において、いわば旧大陸の衛星(satellite)にすぎないといえよう。非常におおまかな計算をすれば、地球の表面の一二分の九は海である。そして一つの大陸ーーつまり旧世界ーーが、地表の一二分の一を占めている。それから南北両アメリカをふくむ残りの小さな島々を全部かきあつめて、やっと残りの一二分の一がふさがる、というおおざっぱな勘定である。(引用終了)(「マッキンダーの地政学」pp.76-81)


強烈な抽象化と言わざるを得ません。

しかし、この見方を得たあとでは、地球儀がそう見えてきます!


4.片手を“アジア”(出発、上昇を意味する)、他の方を“ヨーロッパ”(日没、日暮れを意味する)と呼ぶようになった

(引用開始)エーゲ海を中心とするギリシャ世界の成立に先立って、クレタ島に文明の中心が存在したことが、神話の分析や最近の発掘作業の結果、明らかになったが、これはわれわれの現在のテーマと関連して、きわめて興味深い事実だといわなければなるまい。

 クレタ島こそは、世界最初の海洋勢力ーーシー・パワーの根拠地であろうか? その母港を出て北に旅する船乗り達は、右手に太陽の出る沿岸を見、また左手に太陽が沈むのを見ることになる。それで片手を“アジア”(出発、上昇を意味する)、他の方を“ヨーロッパ”(日没、日暮れを意味する)と呼ぶようになったのではないだろうか?(引用終了)(「マッキンダーの地政学」 p.44)



紀元前一世紀の古代ローマのギリシャ系地理学者であるストラボンの地球儀にはヨーロッパ(EVROPA)とアジアと書かれています!!(この作品自体は16世紀です)

もちろん地中海がでかすぎですけどねー。

四ツ谷のバレリーナ専門気功整体「まといのば」

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