胡蝶の夢(荘周、夢に胡蝶と為る)荘子

西洋魔術を超える「咒」とは何かということが「まといのば」のテーマでしたが、その事例として我々が共有する物語に「胡蝶の夢」(莊子)です。


荘周という男が蝶になる夢を見る。

蝶になっているときは、人間としての記憶がない。

蝶として眠ると荘周として目覚めた。

果たして、荘周が実体なのか、それとも荘周であると思うのは胡蝶の夢なのか?


という物語です。


西洋社会は物理的現実世界の確実性を疑いません。それは神によって照らされる実在ゆえです。それに対して東洋はそのような確実性など存在しないと考えます。それが縁起思想だからです。


引用します!

(引用開始)

原文

昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。

自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。

不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。

周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。


書き下し文

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。


訳文

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。

自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。

ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。

荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。(引用終了)


そして、似たようなものに邯鄲の一炊があります。

これは人間から人間へですが、ちょっとうたた寝をしている間に一人の人生を生き抜いてしまうという物語です。

Wikipediaにはこうあります。


(引用開始)

邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。(引用終了)


というわけで中身です!!


終わらない日常を生きる若者に未来から猫型ロボットがやってきて、成功する枕を貸してくれるというわけです!それを枕にして寝たところ、、、、


(引用開始)

趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。(引用終了)


まさに、栄枯盛衰を味わい尽くして、若くして枯れます。

しかし栄枯盛衰は虚しいと知ることと、それを味わい尽くし楽しむことは別です。

この世は空と分かっていて、仮の機能を与えることと、空観のままでいることは別です。


芥川龍之介の「黄粱夢」は老人として死んだところからスタートします。


(引用開始)

 盧生(ろせい)は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅(ふんどう)が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。

 すると枕もとには依然として、道士(どうし)の呂翁(ろおう)が坐っている。主人の炊かしいでいた黍(きび)も、未(いま)だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸(あくび)をした。邯鄲(かんたん)の秋の午後は、落葉(おちば)した木々の梢(こずえ)を照らす日の光があってもうすら寒い。

「眼がさめましたね。」呂翁は、髭(ひげ)を噛みながら、笑(えみ)を噛み殺すような顔をして云った。

「ええ」

「夢をみましたろう。」

「見ました。」

「どんな夢を見ました。」

「何でも大へん長い夢です。始めは清河(せいか)の崔氏(さいし)の女(むすめ)と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明(あくる)年、進士(しんし)の試験に及第して、渭南(いなん)の尉(い)になりました。それから、監察御史(かんさつぎょし)や起居舎人(ききょしゃじん)知制誥(ちせいこう)を経て、とんとん拍子に中書門下(ちゅうしょもんか)平章事(へいしょうじ)になりましたが、讒(ざん)を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州(かんしゅう)へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤(えん)を雪(すす)ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令(ちゅうしょれい)になり、燕国公(えんこくこう)に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」

「それから、どうしました。」

「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」

 呂翁(ろおう)は、得意らしく髭を撫でた。

「では、寵辱(ちょうじょく)の道も窮達(きゅうたつ)の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着(しゅうじゃく)も、熱がさめたでしょう。得喪(とくそう)の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」

 盧生(ろせい)は、じれったそうに呂翁の語(ことば)を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。

「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私(わたし)は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」

 呂翁は顔をしかめたまま、然(しかり)とも否(いな)とも答えなかった。

(大正六年十月)(引用終了)青空文庫


「生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません」ということは真理であり、そしてまた執着が離れるのが悟りとしたら、そこから「真に生きたと云えるほど生きたい」と思えるのが大乗の精神であり、釈迦の初転法輪の動機かと思います。

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